当代の住職が、突然失明の危機に遭った時、縁あって京仏師村田岱觀師に出会い「千手観音」を彫ってもらい、平成24年9月24日建長寺應供堂にて、仏像彫刻展が開かれそこで展示され、同年11月5日建長寺管長栢樹老師によって安座点眼供養がなされました。
眼の病だけでなく難病に苦しんでいる人々に、千の手と千の眼をもって癒しと安心を齎し、また、悩み事、願い事を解決してくださる観音様として安置されています。
此処に設置されている大正寺鐘楼(釣鐘堂)は、城壁のように石積みされた土台に、木目の美しい欅材の柱を用い一年の時と匠の技が集積され、平成26年11月末日に、建設されました。
梵鐘(釣鐘)は、富山県高岡市にある老子製作所で、平成26年3月5日に火入れ式を行い鋳造し、品質確保のため、8ヶ月間枯らして(寝かして)から、搬入されました。
梵鐘が設置された平成26年11月28日その日、奇しくも中島フクさん(享年106歳)・井戸あさ子さん(享年102歳)が天寿を全うされました。
一世紀を超えて生きて来られたお二人の命を引き継いで、次の一世紀、二世紀と、ここから鐘の音を響かせたいと願い、その名の由来が「福朝命鐘」と付いています。
所有者 宗教法人 大正寺
年代 文政4年(1821年)
形状・寸法 自然石 高さ97cm、幅65cm、奥57cm
刻銘 正面: 南無阿弥陀佛 徳本(花押) 畑久保 尻無沢 当所講中
左側:文政四年辛巳十月日
百体地蔵は、桂昌寺二一世渓山和尚と村の有力者六名が発起人となり、谷ケ原や久保沢等々の人々一六六名、畑久保や穴川等の集落 をはじめ近隣村々から多くの浄財が寄せられ、慶応四(一八六八) 年に桂昌寺境内に建立されました。彫刻は信州高遠出身の石工北原 七兵衛祥重です。
桂昌寺は久保沢谷戸の対岸にあった寺院で、明治三九年に火災で焼失し、この地にあった林泉寺と合併し大正寺となった。この縁で百体地蔵も桂昌寺跡地からこの地に移転した。
中央の丸彫り延命地蔵尊を中心に左右九基計一九基の石造物が安置されているが、百体地蔵は中心の地蔵尊と右端の三界萬霊塔を除いた一七基である。
ちなみに、左端の一基には四面に一体の地蔵尊計四体、残り一六基は一面に二体の地蔵尊が三面にあって計九六体、併せて百体である。
桂昌寺と地蔵信仰については、信州諏訪温泉寺の住職願王和尚の影響が考えられる。願王和尚は、観音信仰や地蔵信仰を広めるため各地を巡錫し、文政年間(一八一八~三〇)の初め頃津久井に来られたと推測される。
桂昌寺や周辺寺院に関する多くの「偈頌(げじ ゆ・漢詩)」や書が残されている。この願王和尚が庇護した石工に、 信州高遠石工を代表する名工守屋貞治がいた。
生前書き残した記録 によれば、「延命地蔵尊久保沢桂昌寺」とあって、桂昌寺境内に貞治の延命地蔵尊が建立されていた。
また、中央に安置されている文久三(一八六三)年の延命地蔵尊銘文によれば、桂昌寺一九世仁邦和尚の「夙願」により「石仏百体之地蔵尊」が建立された。
ところが文久元(一八六一)年「祝融 (火 災)」に罹り崩壊したため、塚を築き新たにこの延命地蔵尊を建立した。これは「先師之所願」を継承するものであるとあった。
現存の延命地蔵尊と百体地蔵が建立される以前に、もう一組の延命地蔵 尊と百体地蔵が建立されていたのである。
百体地蔵には、「先祖代々」・「蚕養守護」・「災難消除」・「天下泰 平」・「五穀成就」等々、建立に関わった人々の願文が書かれているが、何時の時代にも変わらない悠久の願い事であろう。
また、かって津久井と呼ばれた地域には、文久元年焼失のものを含め五組の百体地蔵が建立されました(一組は海老名市に移動)。
この百体地蔵建立の由緒や隆盛については未だ解明されていない。
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